映画な談話室

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「監督 小津安二郎」を読む - 忠さん

2017/03/22 (Wed) 01:32:07
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『監督 小津安二郎 増補決定版』(蓮實重彦・2003年 筑摩書房)を読みました。蓮實氏の提唱する「表層批評」がわかりにくく、本編にも難しい表現が多く,大変読みづらい本ではありましたが、わからない箇所を飛ばし読みしても、十分読み応えのあるものでした。小津作品をもう一度見直してみたいという気になりました。「終章 快楽と残酷さ」の中で、映画を「見る」ことの難しさについて述べている箇所を引用します。

 映画における一つの画面は、(略)そこには無限に開かれた意味が込められているからである。にもかかわらず、多くの人が、ごく限られた意味しか読みとろうとはしない。事実、人は、説話論的な持続から置いてきぼりをくわされるのを恐れ、無限に織りあげられては解きほぐされてゆく複数の意味をごく貧しい組み合わせに還元し、それを中心とした構図を想定して残りを周縁に追いやる。こうした瞬間的な作業を機械的にやってのけないかぎり、物語に追いつくことはできないだろう。
 たえずわかっている状態に自分を置いておくためのこの機械的な中心化、それが視線の蒙る文化的な不幸に他ならない。

 つまり、映画とは、待ったなしの映画の進行についていくために、今見ている画面がどんな意味を持っているのか、いちいち止まって考えることを見ている者に許さないメディアなのです。そうしているのに、我々は映画を「見た」とどうして言えるのだろうか?「小津を見た」とどうして言えるのだろうか?「見た」のは、実は自分の思考が捏造した虚像で敷かなかったのではないか? 「見ていないこと」を思考で誤魔化してはいなかったか?「映画を見る」ことへの根源的な問いに答えようと果敢に挑戦したのが本書であります。蓮實氏は、今まで、誰からも気に留められてこなかった「映像の細部」を鋭くキャッチし、それがいろいろな作品の中で模倣され、繰り返し繰り返し出てくるを実証し、それが作品の展開にどんな意味を持っていたのかを検証している。読み応えのある本でした。
この本は、序章と終章の他に十章から成っています。以下簡単に紹介します。
「Ⅰ 否定すること」・・「キャメラが動かない」「移動撮影ががほとんどない」「愛情の激しい葛藤が描かれない」「物語の展開は起伏にとぼしい」こうした否定的な言辞で捉えたうえで、これを「小津的な単調さ」こそ小津作品の本質だと語られてきたが、筆者は、「小津安二郎論は、小津の作品を豊かに肯定する試みでなければならない」と断言する。
「Ⅱ 食べること」・・・「食べること」(実際に食べているかどうかは問わない、食べることを話題にしているシーンも含む)は物語の展開を誘引し、人々を結びつけもすれば引き離しもする契機となる。
「Ⅲ 着換えること」・・・「着換える」という運動が別れ(結婚、死)の儀式になっている。
「Ⅳ 住むこと」・・・二階建ての日本家屋がよく出てくるが、登場人物が台所の横に「あるであろう」階段を上っていくシーンが描かれることはほとんどない。「階段の不在」は、「二階の部屋」が25歳前後の娘たちの聖域であることを示し、男親や兄妹たちを排除する空間は、やがて娘の結婚によって「無」に成ることを暗示している。
「Ⅴ 見ること」・・・二人がそろって同じ方向を見るシーンが繰り返し描かれる。この身ぶりは二人の「共感」を何よりも雄弁に語っているが、不思議なことに、何を見ているのかは描かれない。見られている対象が登場しない。
「Ⅵ 立ち止まること」・・動きを一斉に止めるシーンとして、記念撮影の場面を取り上げている。これは、「告別の儀式」であり、「別れの主題」を物語に導入している。
「Ⅶ 晴れること」・・・小津の作品には雨のシーンがほとんどない。小津は春から夏にかけて脚本を書き、夏にロケハンして、季節のいい夏から秋に撮影してたそうです。蓮實氏は、影響を受けたアメリカ映画の西海岸の景色を意識していたのではないかとも推測しています。小津は「白昼の映画作家」であったといっている。
「Ⅷ 憤ること」・・これは『映画論講義』で触れたので省略する。
「Ⅸ 笑うこと」。・・・笑い声と笑い顔がズレていて、ほとんどが無人の廊下のカットから笑い声だけが響き、少し遅れて笑い顔が写される。場面転換の時によく使われる。
「Ⅹ 驚くこと」・・・どんな役をしても、笠智衆は「表情の零度」の仮面をごく当然の前提として行動している。この「驚愕の不在」は、娘たちの気持ちを理解しようとしない無神経な男たちへの「懲罰」の意味が込められている。

 巻末につけられた、長年小津の映画キャメラマンを務めた、厚田雄春氏へのインタビュー記事も面白かったですよ。松竹から軍事映画を撮るよう命じられた小津組はシンガポールに行ったが、戦況悪化で、撮影がでないものだから、米軍から接収した映画を見て過ごしたというエピソードが面白かったです。そこで、小津は、『市民ケーン』、『風と共に去りぬ』、『怒りの葡萄』、『哀愁』などを見たそうです。小津はエルンスト・ルビッチュ監督の『月光』のラスト・シーンを賞賛していたそうです。アメリカ映画を見て育った小津が、アメリカ「映画の文法」に囚われなかったというのですから、彼こそ真の自由な映像作家であったと言えるのではないでしょうか。

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