映画な談話室

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小林信彦を読む - 忠さん

2017/04/01 (Sat) 18:37:28
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 映画論、映画時評、鼎談、エッセイなどを読んでいると実に楽しい。本を読んでいると、新たな「発見」(ああ、こんな映画があったのか、こんな見方ができるのか)、「共感」(ああ、この人と同じ意見だよ)に出逢えるから、やめられませんね。
 今回は、『黒澤明という時代』(小林信彦・文藝春秋・2009年)を読みました。この本は、タイトルからわかるように、黒澤明の映画の魅力に取り憑かれた人が、映画の魅力と封切られた時代とそれを見ていた時の自分の思いを描いた本です。まさに、「黒澤明という時代」があったのだ、思える本です。
 1943年、黒澤の監督第一作となる『姿三四郎』が3月25日に封切られた。太平洋戦争の戦況が悪化していく暗い世相の中で、1932年生まれの小林少年は国民学校四年から五年に進む春休みにこの映画を見た。その時の衝撃を、「私は、生まれて初めて<文化的事件>を経験した」と書いている。その時の感想は「ただもう面白かった」。戦時下に映画に夢中になった人々がいたなんて、少し奇異に感じられるが、小林氏は「私が何回か観たのは、親か番頭かが、自分も観たくて、連れていってくれたのと、話題の映画や芝居を逸早(いちはや)く子供に観せるという風習の商家に育ったからにすぎない」と述べている。戦況悪化の時代にもかかわらず、このような娯楽映画が封切られたこと自体も意外であったが、一部の裕福な家庭での話であったとしても、映画を夢中で観ていた人たちがいたことは大変驚きでした。ま小林氏は二歳年上の佐藤忠男の文章を引用し、この映画が当時の子供達にいかに人気があったかを述べている。「少年たちの間では、この映画の評判はたいへんなものだったし、主役を演じた藤田進は、いっぺんに、戦時下の少年たちのヒーローとなった。(略)なにしろそのころ、映画は少年たちにとって最大の娯楽であり、おもしろい映画の噂は何日も何周も語り継がれてあきることがなかった」。小林氏は1963年封切りの『天国と地獄』までの20年もの間、黒澤映画を封切りと同時に観続けることになります。第一作以外には『野良犬』『生きる』『七人の侍』『用心棒』『天国と地獄』を高く評価しています。小林氏は、黒澤映画の特徴を「ヒューマン・アクション」だと言っており、それらの作品はその特徴がもっともよく表現された作品であると述べています。では、1965年『赤ひげ』から最後の作品である1993年『まあだだよ』まではどうかといえば、上記の魅力が感じられなくなった作品ばかりで、観るのは観たけれど、以前のように封切りと同時に映画館に飛び込んで観たいという情熱は失せてしまったそうです。確かに『赤ひげ』の三船敏郎は立派すぎて、ストーリーに黒澤流のテンポがなくなっているので、私もあまり評価しません。この映画は黒澤作品としては珍しい、女優の演技が秀逸な作品であったと評価できるのではないでしょうか。香川京子、団令子、桑野みゆき、根岸明美、何と言っても、二木てるみの「おとよ」の名演技が素晴らしかったですね。小林氏と同様に、それ以降の作品は良いとは思いません。『影武者』『乱』は豪華絢爛な絵巻物で、心に響くものがなかったです。『まあだだよ』は黒澤の意図が空回りをして、軽妙洒脱な主人公の生き様が、ただただ軽佻浮薄なものに思えてしまったのは、私だけでしょうか。
 しかし、黒澤明は日本人を最もワクワクさせた名監督の一人であることには間違いありません。私の黒澤映画のナンバーワンは、『七人の侍』です。何度観ても飽きないし、登場人物がみんな画面の中で生きている、主役も端役もみんな生きています。左卜全などは忘れられませんよ。黒澤は群像劇の演出がうまい監督だと思います。

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